にいさんより
日本各地を巡ると、
多くの家が連なり、
そこには生活や人生があります。
そして、ふと思ったのですが、
各戸から排出されるゴミについて考えてみることにした。
以下、小川仁志さんの文章を引用しながら記載しています。
ゴミとは<広辞苑より>
物の役に立たず、ない方がよいもの。ちり。あくた。ほこり。また、つまらないもの。
ゴミという言葉は、「ゴミ問題」というように、
一般的に否定的なイメージがあります。
広辞苑にもあるように、
ゴミというものはモノが目的を果たした後の
不要物を意味し致し方ないのかもしれません。
生ゴミ・紙屑から核燃料まであらゆるものがゴミになりえます。
では、人間はどうだろうか???
現代人においてはのトイレの下水道システムを考えてみれば、
人間の排泄物(排便尿は本来は自然に還元していくべきものと考えています)はゴミですが、
人間そのものは、いくら死んでもゴミとは呼べません。
それはやはり尊厳があるかだと思います。
亡くなられた方の魂やその肉体(ご遺体)に対して、
敬意を込めているように。
しかし、人間に尊厳があるように他のモノにだって
尊厳を求めてもよいのではないかと思います。
(沖縄の言葉には、「○○小(ぐゎ)」と敬愛をもって呼びます
たとえば 三線小、食器小、傘小、にい小などなど)
動物もそう、物だってそう。
大事にしていた傘が壊れた、
楽器が壊れたから捨てる。
そうなると途端にゴミと呼んでいいものなのでしょうか。
おそれくこれは、
有益なものだけを重視し、
それだけを信奉してきた結果だと思います。
私たちの理性は、有用性を追求し、
有用なものだけに価値や尊厳を見出しているのではないでしょうか。
「非理性」に注目してきたジョルジュ・バタイユ(Georres Bataille)氏は、
現実を構成する醜いものにも目を向けるべきだとして、
排泄物や異常なものといったタブーに
価値を見出されていました。
あらゆるものが人間の一部であり、
行為の結果です。
それを抜きにして人間の本質を語ることはできないし、
排泄物が汚いからといって、
一切かかわらずに生きていくことは不可能です。
その意味で、
ゴミはすべて、
本当は人間の本質の一部であり、
おそらくそんな視点でゴミに向き合うことができたときは、
はじめて、この世から「問題としてのゴミ」はなくなるのではないだろうか。
参考、引用:ジョルジュ・バタイユ(Georres Bataille)1897~1962(フランス思想家)
小川仁志(哲学者) 哲学カフェより
また、
普段の生活から排出されるゴミについては、
なるべく3Rを目指していきたいものです。
限りある資源を大切にしていきたいです。
Reduce(リデュース)
使用済みになったものが、なるべくごみとして廃棄されることが少なくなるように、ものを製造・加工・販売すること
Reuse(リユース)
使用済みになっても、その中でもう一度使えるものはごみとして廃棄しないで再使用すること
Recycle(リサイクル)
再使用ができずにまたは再使用された後に廃棄されたものでも、再生資源として再生利用すること
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